ロルフィング、セラピスト、それから。。。

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けーじ

Author:けーじ
 旅をしていたら、たくさんの道を通過していく。ちょっと途中寄り道をしてみる。そうすると、っ!!となるようないつもと違った景色が広がっているかも知れない。

 アメリカを経て、日本へ帰国間近。

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久しぶりに更新

2009.10.23 日常でのこと
日本という国に帰ってきてからしばらくが経った。


いまいちどう自分を表現したらいいのかがわからなくなっていた。


この国は、自分らしく生きるという選択がなかなかできない国
というレッテルを貼ってしまっていたからかもしれない。


それが事実だとしても、自分の心だけは、自由でいたらいいのだ。


自由を縛るものは、他人からの期待、自分から自分自身への期待。


夢だって希望だって、こうあらなければならない、と思った時点で
それが足かせになる。


そんな期待は全部捨てて、ちょっとアホでいこう。


自分は何も知らないから、という前提で自分を始めたら、


自分は何も持っていないという前提で自分が居られたら、


自分はだから、人にあれこれ教えることも、
言うこともなくなる。


自分が原寸大になる。


そうして、頭に浮かんできたことを、興味でやってみたらいい
だけになるじゃない。


やって失敗しても、数打てば当たるよ。気軽にやろう。


もう、やらなければならない、とはおさらばだ。


僕は今から原寸大(ちょっとアホ)で行く。


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コメント3
トラックバック1
2009.11.01 03:28 edit
はじめまして。私は自由という言葉から自由になるのに三十年以上の歳月を要しました。
自由という言葉で逆に自由が脅迫概念になり、社会で果たすべき義務や責任すら自分を縛るものとして忌々しく感じていました。
しかし我々は自分では自分の価値観や考え方を検証することはまずできません。他人や社会と関わってはじめて自分の世界観を検証することができます。それはロルファーが人の体を評価するのと同じだと思います。自分で自分の体を実は全然分かっていないではないですか。人は人と関わりはじめて互いの心を評価し合い、高め合うことができる生き物だと思います。
特に日本人はもともと恥の文化を持ち、厳しい目を持つ民族だと思います。でもだからこそお互いに高めあうことのできる文化を有しているのではないでしょうか。欧米化し日本の犯罪率が上がったのには自由という言葉が、他人を顧みない自由を我々に提供したからでしょう。だから私は自由という外来語を決して信用していません。
思いどうりに生きたいと願うことすら誰かのお下がりで陳腐な願いだと思います。本当は思い自体を人との関わりの中で高めなければ、人は本当の意味で一生成長できないのではないでしょうか?
風の谷の蝦夷 URL
2010.02.03 20:46 edit
風の谷の蝦夷さん、コメントありがとうございます。
更新が滞っていまして、気づかず失礼いたしました。

自由とは、自分の中にある定義で、行ったり来たりできるものだと思います。外来語であろうと、そうでなかろうと。また、自由と個人主義は違います。ここはどうやら、ここで使う自由の言葉と、コメントの中でおっしゃっている自由とは、行き違いがあるように思います。

私たちは、自分を再発見するときに、どうしても他人との関係を必要としています。その通りだと思います。ロルファーはその役割をしているのだと自分は思っています。人を判断することはしません。ロルファーが人の体を判断するというのは、風の谷の蝦夷 さんの持つロルファー像ではないでしょうか。

私たちは、感覚をフィードバックし、その方がもともと持つものを引き出す方向性を作ることができるだけだと思います。変化を望むかどうかは受け手の判断によるものです。私たちは、選択肢を増やすということをしています。

人は自分のそれまでの経験を投影する生き物だと思います。それは、いつでも誰でも起こっていて、なくすことは不可能だと思います。しかし、それに気づいているのとそうでないのでは、そこに違いがあります。

体のことを知れば知るほど謎も深まります。ロルファーだけでなく、自分が知っていると思うその心がすなわち奢りなのだと思います。


自由という外来語を信用してもしなくても、そこに選択の自由はあります。私たちは、無意識にも、意識的にも、文化的にも、ある意味では自由に選択しているのだと思います。


人が成長できるのは、おっしゃるとおり、他人との研磨する中で、自分という存在を自分で定義していくことから起こるのだと思います。また、自分に核というものがあれば、それを育てていくものだと思います。


思い通りにいきるという願うことはすばらしいことだと思います。それが叶っても叶わなくても、自分の中に目標を設定できます。そこに向かっていくことは、一つの成長の形であると思います。


私は、強い思いは直感からくるものであると思います。それを試されるのは、おっしゃるとおり、人との関わりの中でだと思っています。


風の谷の蝦夷さんのおっしゃる言葉の定義と私がここで使っているものでは、違いがあるかも知れませんが、それが違っていてもそれでいいと思います。

一つの文化の中で、言葉を縛ることが、すでに自由ではないのですから。

体や心は評価するものではないというのが私の見解です。また、信用しないのも、何かを陳腐だと思うのも、何か、私の自由とは異なることだと感じます。

つらつらと、感じたことを書いてみました。










けーじ URL
2012.04.30 04:25 edit
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